松崎順一『メイド・イン・ジャパンのデザイン!70年代アナログ家電カタログ』
メイド・イン・ジャパンのデザイン! 70 年代 アナログ家電カタログ
- 作者: 松崎順一
- 出版社/メーカー: 青幻舎
- 発売日: 2013/06/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本は、1970年前後に家電メーカーが配布していた製品カタログを網羅的に掲載した言わばカタログ全集だ。その数、約550点に及びまずその量に圧倒される。それらが家電蒐集家、松崎順一氏によって、分類、再編されている。タイトルに「アナログ家電」と銘打っているように「デジタル家電」ではない。「デジタル家電」は、家電の中にコンピューターが組み込まれるようになってからのものだ。「アナログ家電」という呼称はないが、「デジタル家電」と差別化するための造語だろう。
エレクトロニクスには、重電や軽電といったカテゴリがある。重電は発電機や変圧器のような主に産業用の電気機器であり、軽電はテレビやラジオなどのAV機器に加え、洗濯機、冷蔵庫などの「白物家電」を含めた主に家庭用の電化製品のことを指す。
重電を扱うのは日立や東芝、三菱など旧財閥の系譜を引き継ぐ企業だが、総合電機メーカーとして家電も製造している。しかし、重電などのインフラ関連産業は資本規模が大きく新規参入は難しい。だから新興企業は発電所などの上流の「電機」ではなく、下流である家庭の「電器」の製造に参入してきた。それが「アナログ家電」の歴史である。
大正時代前後に創業された総合家電メーカーの松下電器産業(現・パナソニック)やシャープは家電ベンチャーの第一陣であり、戦後に創業されたAVメーカーのソニーやパイオニアなどは第二陣だと言えるだろう。
70年代というのは、総合電機メーカー、総合家電メーカー、AVメーカーというそれぞれ特色を持った日本の家電が成熟期を迎え、日本車とともに世界を席巻していった時期にあたる。60年代の追いつけ追い越せの時期から、日本の独自性を発揮し、「安い家電」から「質の高い家電」となっていった。
私事であるが私の父は家電メーカーに勤めていたので、その恩恵を受けて育ってきた。この本は70年代前後という、家電メーカーの黄金時代のカタログが収録されており、それはそのまま幼少期の記憶と重なっている。しかし、この本には成熟し洗練された日本の家電を表象するカタログが並んでおり、郷愁を感じるものではない。現在の目から見てもセンスが良く「恰好いい」と思えるものが多い。
家電がアナログならば、そのデザインもアナログである。写真はフィルムだし、デザインは写植だろう。特別な職能を持つ写真家、デザイナー、コピーライターが組んで、カタログになっていることがよくわかる。コンピューター登場以前のすべてのアートワークはアマチュアでは到達できない特別な技能の結晶だった。
実は家電もそうであり、複雑な回路や部品を組み上げる日本の家電はまさに職人技が凝結したもので、冷戦下において日本メーカーが市場環境や労働環境において有利だったということを差し引いても他国のメーカーが追随できない領域に達していたのだろうと思う。今日、日本の家電が総崩れになっているのは、冷戦の終結、円高、賃金の安い新興国の台頭に加え、デジタル家電になって回路や部品がモジュール化し、職人的技能が不必要になったことも大きい。
それはそのまま写真やデザインの世界で、デジカメやマッキントッシュ(DTP)の登場で大量のアマチュアが参入可能になったことと似ている。それを否定するものではないが、この本には一流の人々の職人的技能とセンスが組み合わさったプロフェッショナルな仕事を感じることができるだろう。その一つの到達点として「ウォークマン」とそのコマーシャルやカタログがある。今はすべてがデジタル化され、まったく環境が変わってしまったが、そのセンスの部分は現在でも多いに参考にできるのではないかと思う。
また、この本は東日本大震災によって、著者の知人の蒐集家の家屋が倒壊し、半年かけて著者がカタログを救済し寄贈されたことがきっかけだというエピソードも見逃すことはできない。震災後、多くのボランティアやフィルムメーカーによって、多くの写真が救済されたが、2000年以降の写真は極端に少なかったらしい。それはデジカメで撮影した写真はハードディスクごと消えてしまったからだ。
私たちもかつて引越しのために捨てられる予定だった大量の観光ペナントを譲りうけたことを契機にそれらを整理、分類し本を作ったことがある。昭和の子供部屋がそのまま凍結されたようなその部屋に入った時の衝撃は忘れられない。
著者が蒐集されたカタログを見たときの衝撃も相当なものだっただろう。その衝撃がこの本へと繋がっているに違いない。そして、消失する可能性のあった70年代の家電のカタログが、アナログ(紙)の本に転写、再生されている。家電とカタログ双方のデザインの素晴らしさとともに、郷愁を超えて「アナログ」の強さを再認識させられる一冊である。
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お釈迦様が説いた最高の知恵「般若」の話
なあ、舎利子。お前はたしかに頭がいい。
だけど、私からしたら、まだまだ自分のことしか考えてないように思える。それでは最高の知恵には到達できない。
観音は一生懸命、勉強しているけど、自分のためにやっているんじゃない。人のためになろうと思って勉強しているんだ。人を助けるためには幾つかの勉強をしなければならない。
なかでも、観音が求めていたのは人を助けるための最高の知恵「般若」なんだよ。最高の知恵は人のためにしか得られないものだ。
そんな観音が最高の知恵「般若」を求めて勉強していたときのことだ。
観音はふと気付いたんだ。世の中に確かなものなど何もない「空っぽ」で「空虚」なものだということに。それで、自分の苦しみからも解放された。
舎利子、それがどういうことかわかるかい?
普通、誰しも人間の肉体は確かなものだって思うだろう?
でも、肉体さえ不確かなものだ。
肉体からの感触も、それから得られる認識や意識や無意識もそうだ。
それだけではない。この世のすべての存在は、みんな空っぽだという特性をもっている。生まれないし滅びない。汚くもないしきよらかでもない。増えることもないし減ることもないんだ。
空っぽであるから、肉体も感覚も認識も意識も無意識もないんだ。
当然、眼も耳も鼻も舌も肌もなければ、声も香りも味も肌触りもない。それよりもたらされる認識もなければそれらの認識によって成り立っている世界もないんだ。
そもそも世界が空っぽならば、迷いの世界に陥ることもないし、迷いから抜け出そうとすることもない。老いたり死んだりすることを苦しんだりすることもなければ、その苦しみから逃れようとすることもない。
それらの苦しみがないかなら、それらの苦しみをなくす方法もないし、その方法を知ることもない。
世界が「空っぽ」だと気付くことによって、人を助けようとする人は、最高の知恵「般若」を得て、心をさえぎるものがなくなった。心にさえぎるものがないので、怖がることは何もなくなった。
すべての誤った幻想から離れて、安らかな境地に達した。
過去、現在、未来にわたり、私を含めて人を助けようとする人は、皆、最高の知恵「般若」によって、どんなことがあっても動じない素晴らしい悟りの境地に達したんだよ。
なあ、舎利子よ。だからもし最高の知恵を得たかったら、「般若」を学びなさい。ただし、「般若」は理屈で捉えられるものじゃない。直観でしか得られないものだ。
だから、すべての苦しみを除くことができる、この神々しく、明らかで、比類なき、最高の呪文を唱えなさい。
「ギャティ ギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボジ ソワカ」
(行こう、行こう、素晴らしい悟りの境地に 求めるものよ、幸あれ)
僕もやってみたけど、般若心経は、現代訳をしたらこんな感じかなぁ。