横浜トリエンナーレ見聞

先日、横浜トリエンナーレに行った。ディレクターが磯崎新が降りたため川俣正に急遽変更され、ドタバタのうちの開催された影響もあってか完成度が低いとか、まとまりがないとか否定的な評判が広まっていた。
 だが、僕の印象では、言われるほど悪くないと思った。ドクメンタ等の国際展もたいがい展示は突貫でまとまりがないことが多いからだ。ただ、もともとワーキングプログレス型の川俣正のセレクションということもあって、その手のタイプの作家を集めたためか、展示としての完成度が低い傾向にあるというのは全体の印象に影響しているだろう。テーマも「アートサーカス」であり、つまり「なんでもあり」の言い換えになっている。
 気になったのは短期間でアーティストを集めたのにも関わらずその人数の多さだった。逆にもう少し減らした方がメリハリが利いてよかったんじゃないかと思った程だ。前回のトリエンナーレも、ほぼ2箇所に4人のキュレイターが世界中から集めたアーティストを、幕張メッセのごとくぎゅうぎゅう詰めにブース展示をしていて驚いたけど、今回もかなりにぎにぎしかった。しかも、前回のようなブースで囲まれていない展示も多いため、作品同士が干渉しあってしまっているのだ。
 前回は、4人もキュレイターがいたために、作風やテーマの共通性がなく、お互いがまったく別ものとして、柵を設けるしか方法がなかったわけだけど、
今回は、ディレクターが1人なわけで、柵がなく、それでいて互いが、良い意味で共振するというような展示も不可能ではなかったのではないかと思ってしまう。
 その点、今回も残念ながら、アーティストのチョイスのみで、総合的に展示空間が演出されているようには見えなかったことが残念だった。
 逆に、演出が下手糞でも、欧米のディレクターのように、一貫したコンセプトで、アーティストが集められていれば、それなりの強度が生まれるのだけど、テーマも「なんでもあり」のイベント型で、しかも、相互の関係性が考慮されていなければ、いきおいまとまりのないものに見えるのも致し方ないと言ったことろだろうか。
 そのような異種格闘技の乱戦状態で、やはり強い印象を与えているのは、逆説的に工芸的な仕上がりがよいものという展示になっていた。奈良美智&グラフなどは、やはり自力が高いということを証明していた。
 やはり、日本のアートフェステバテルで欠如しているのは、演出力ということになるのではないだろうか。悪貨は良貨を駆逐する、ではないけれど、自力が高い人の展示までも曇らされてしまうことのないことと、コンセプトでもスタイルでもかまわないので、作品が相互に共振するような総合演出を望む。