年賀状を書く

毎年年賀状を書かないし、ほとんど送り返しもしないということを高校時代から続けている。はじめからそういう文化を拒否してきたきらいかがある。というよりどちらかというか面倒くさい、という消極的な理由だっったが、そのうちそれは暗黙の主張になり、こいつは年賀状を書かないやつだ、と認知されていった。
しかし、今年は年賀状を書いた。その理由もなぜだろうと思ったが、年賀状を書くことが、近年のインターネットや携帯のメールの隆盛で、下火になってきたため、逆に意味のあるものになったからであるように思う。おそらくかつての年賀状は、みんなが当然書くものだっただろう。それだけに、送られる方も送る方もある種の惰性になっていたところがあると思う。特にワープロやパソコンが浸透すると、宛名はデータベースに入力したものから印刷され、年賀状制作は一種の家内工場ラインにのってしまった。特にプリンタ業界はそれを煽り続けている。
そもそも年賀状の文化も、戦前の郵便網が整備されたときに、それを民衆に認知させるために、郵政省によってプロパガンダされた文化である。つまり、それ自体かつてのネットワーク時代の遺産なのである。
それは日本の高度経済成長にともない安定して組織がふくらみ、年賀状を書く人数が莫大になっていった。それを支援したのが、ワープロなどのコンピュータの発達というのは今になってみれば歪な話だと思うが、当時それらはネットワーク化されていなかったので年賀状を代替するまではいかなかった。しかし、インターネットや携帯電話という代替手段が出てきた今日、それはゆるやかに衰退していくのは明らかだろう。そもそもに年賀状をせっせと準備して出すほど、冬休みは長くないのだ。同じ組織や親しい仲間の場合、そのうち実際に顔をあわせてしまうこともある。
したがって、年賀状を送る意味は、衰退していく文化のなかであえて出すことであり、さらにそれを工場ラインのように流れ作業でするわけでもなく、手書きで書くことだろう。そうできるくらいに、組織内も流動的になり、母数も少なくなっているのではないかと思う。というわけで、筆ぺンなるもので年賀状を書いてみたが、なかなかしっくりくるのはやはり日本人だからなのだろうか。