ウェブ人間論書評

ウェブ時代の生き方に向けて
基本的な構成としては、ウェブ業界について見識の深い梅田望夫さんに、文学界の中でも若い世代である平野啓一郎さんが問いかけ、それについて梅田さんが答えるという構成になっている。


しかし、この対談論がより複雑に見えるのは、平野さんが1975年といういわゆるウェブ業界の新興世代と同年代でありながら、非常に古い文学界に属しており、梅田さんが世代的には一回り上の世代に属しているにもかかわらず、ウェブ業界という最も新しい業界に属していることで議論の軸が交差しているからであろう。
他にも文学×テクノロジー、日本×アメリカ、リアル×ネット、記名×匿名など様々な対立軸が交じり合いながら議論が進められる。したがって、その対話はスリリングとも言えるし、やや散漫とも言えるので議論のテーマを少し整理して考えてみたい。


平野さんにが展開している問いの背景にあるのは、文学的というよりも、80年代のニューアカデミズムの批評理論の知識であり、平野さんはいわゆる遅れてきたニューアカ世代と言ってもいいのかもしれない。おそらく、1975年生まれで「ニューアカ」の洗練を受けたという学生はかなり希少であり、そうとう「ませて」いたものしかその影響を受けていないだろう。平野さんがそのデビューの早さから、早熟であったことは間違いない。
同い年でしかもまったく同時期に株式会社はてな近藤淳也さんが京大のキャンパスにいたわけだが、「ませて」いたがために一世代前の知識を持った平野さんと、物理学部でそのような洗練をほとんど受けなかった近藤さんの現在のコントラストを考えると非常に興味が深い。


さて、ウェブ人間論の基本的なテーマを考えると、それはインターネットがもたらした技術革命的な側面があるにせよ、それがもたらす情報の急増ということだけではなく、それにともない人間のコミュニケーションが劇的に変化し、その変化に対してどのように生きるかということだと思われる。つまり、「ウェブ時代の生き方」論なのであろう。


かつて、人々のネットワークは血縁から始まり、地域、社会、国家という形で拡張してきたが、インターネットは劇的にそれまでのネットワークの枠組みを乗り越える出会いをもたらした。そのような新しいネットワークのレイヤーが過去のレイヤーを時には補完し、時には解体し、再編していくときに、我々はいやおうなくその大きな流れに巻き込まれていくわけで、そこにおいて新しい生き方が人類の課題になっていると言える。


もちろんその変化は、人間にネガティブな側面をもたらすこともあるわけだが、そのネガティブな側面を十分に理解しつつも、いかに積極的になれるかが話し合われている。
ここでは、ポジティブな側面を強調するのが梅田さんで、ネガティブな側面を強調するのが平野さんの役割である。


インターネットのもたらすポジティブな側面とネガティブな側面
まず、ネガティブな側面を上げると、不特定多数の匿名の人々からの誹謗中傷の可能性があるだろう。平野さんはその洗礼をもっとも初期に受けた人物であると言えるだろう。平野さんが芥川賞を受賞し作家として認知された時期と、インターネットが普及し始めた時期と重なっていることがその大きな要因である。


この辺から平野さんが意識していたニューアカズムを筆頭とした批評家たちの存在は、インターネットの隆盛とともに影を潜め始める。彼らの言動は、主にメディアによって担保されてきたのであり、その直接性と速報性そして双方向性が必要とされるインターネットの世界では通用しなくなった可能性がある。また、その批評理論の拠り所が主にフランス経由のポスト構造主義だったために、先端技術に対峙する批評理論があまり育たなかったのかもしれない。


つまり、平野さんはそのようなメディアのフィルタリングがない上に、文芸批評界の先人がほとんどいない世界に、ぽーんと放り出された状態で今日まで格闘し、さらにその格闘を題材に小説活動を続けていたと言えるだろう。その意味で平野さんが梅田さんのシリコンバレーの文化をバックボーンにした「ウェブ進化論」に新しい可能性を見出したのはうなずける話である。


ポジティブな側面としては、その情報収集の能率の良さ、そして新しいネットワークでのコミュニケーションの広がりだろう。当然ながら、その情報収集の能率の良さがもたらす変化については互いに肯定的である。


梅田さんのインターネットによって可能性空間が広がるという主張は、参加している母数が増えることで、より自分の嗜好とマッチした人物と出会える可能性が高くなるということである。
それは正しいと思うがそれは同時にネガティブな側面と不即不離の状態であると言える。
なぜなら、同時に「出会いたくない」人物と出会う可能性も同時に高くなるからである。
例えば、マッチする人物の数と比較し、マッチしない人物の数の方が圧倒的に多いので、リスクの方が高いとも言えるのではないだろうか。


その際、リアルなコミュニティの方が広い、という主張も言うことができて、つまり、リアルなコミュニティの場合は、相性が良くない人物に対してはわかるし、適当な距離を保ったり、避けたりすることで衝突を防ぐ工夫をしているだろう。その物理空間が近すぎてそのような対応ができない場合は、地域や組織を移動することで対応することもあるだろう。そのような選択肢はかなりあるだろう。
ただし、インターネットにおいては、全体的な空間がかなり狭いように思われる。その理由は検索エンジンによる一望性によるところも大きいだろう。


さらに、梅田さんが日本におけるWeb2.0業界のゴールデンエイジがわずか3年程度に集中していると指摘しているように、ある程度嗜好は世代で形成されるものであり、その潜在的に共通の嗜好を持つ人物と出会える可能性はあるが、まず例外はあるにせよ、まずとくに日本の場合、まず国で絞り込まれ、世代で絞り込まれ、嗜好で絞り込まれ、能力で絞り込まれていくうちに、実はその数は数十人レベルになってしまうのではないかと予想されるのである。
それに比べ、「出会いたくない人物」と出会う可能性は比較にならないくらい多く、さらに、現在のところそこに適度の距離を置く術があまりない、ということがことの本質ではないかと思われる。


また、自分に対して潜在的に「関心があり好きである」の他に、「関心がなく好きではない」という人物のほかに「関心があり嫌いである」という人物も多分に含まれていることが問題なのである。「関心があり嫌いである」人物が、自分に対してアプローチをしてくるのは、実はウェブ空間の心理的な狭さに由来するのではないかと思われる。
例えば、嫌いな人間であったとしても100平方メートルのエリアがあれば気にならないだろうが、10平方メートル程度になれば嫌いな気持ちが具体的な攻撃に転ずる可能性もあるだろう。つまり、これほどネガティブな反応を示すものが多いというのはウェブの心理空間の狭さを示しているとも言えるのである。
これに関しては、梅田さんは例えば、ブログ等の更新度を上げること等のインターネットでのアクティビティを増すことで解消できると主張する。たしかに、一時的にそのようなコメントは下がってしまうと思われるが、逆にアクティビティの高さは心理空間の中で大きな位置を占めていくことでもあり、嫌いな気持ちも比例して高くなる可能性もあり、根本的な解決策ではないように思われる。したがって、いかにインターネットの心理空間を広く多様にするためのシステムを用意するかが課題なのではないかと思われる。
その傾向は、SNSやVOXのような閲覧制限を設けるサービスが出ていることからも伺えるが、必然的に「不特定多数」の可能性空間は失われるわけで、今のところトレードオフの関係にあるわけだが、今後、それらを残しつつマッチングしない人とは適当に距離を置けるというような多様なネット空間が出来上がるかもしれない。


インターネットにおける文字メディア
そもそも、インターネットでのコミュニケーションは、常に新しいシステムが生まれるたびに誤解や誤読、相互不信を繰り返してきた。例えば、初期のメーリングリストでも、何度も今日で言う炎上を見てきたし、掲示板サービスも同様である。
その根本原因を考えると、インターネットのコミュニケーションがそもそも対話がしにくい性質を持っているからだといえる。
その特性として、第一今のところインターネットが文字中心のよりやりとりであり、ボディランゲージによる行間の補足がなく、対面ゆえの遠慮が働かないという要素がある。つまり、文字をカバーする情報の補足と、面と向かっていないことでのブレーキが利かない2つの面があるだろう。


さらに、文章が統合的ではなく、段落や文節単位で判断されたり、分断化されて返答されることによる弊害もあるだろう。これはインターネット以前にはなかった文字ベースのコミュニケーションの変質である。いわゆる「揚げ足」が極端に取りやすくなったと言える。


そして、媒体によるフィルタリングのなさがある。基本的に雑誌や新聞などの活字媒体は、ある程度読者を想定して書かれるものである。もちろんそこに掲載される広告も雑誌のターゲット層に合わせた形で出稿されている。雑誌には、タイトルとともによく「○○のための○○マガジン」などのキャッチコピーがついているが、それがまさに読んでもらいたいターゲット層と内容を端的に表す言葉である。読者の方もそれを手がかりに読むかどうか判断するのであり、言わば「テレホンパンチ」なのである。


特にインターネット以前までの雑誌媒体の優位性はそのセグメントによって言われることが多かった。つまりテレビほどの不特定多数にではなく、読者の絞込みができている(かのごとくふるまう)ということが強みだったのである。


雑誌媒体に書かれる書き方は、もちろんページ数や文字数等の物理的にはページ領域によって規定されるわけだが、内容については想定読者のリテラシーにあわして書かれるのである。つまり、年齢や嗜好など絞込みをすでにしたと仮定し、その層のコモンセンスをベースにした書き方ができるのである。


情報の伝達というのは、送り手もさることながら、受け手の知識や経験等からなる理解度に依存するものであり、双方がマッチすることによって、伝達と理解の合意が形成されるのである。


しかし、ブログのような不特定多数への伝達の場合、どのような層をターゲットにしているか当人が無自覚な場合もあるし、受け手が無自覚な場合もあるので、伝達と理解の合意が形成されないことも多い。
そのような紙媒体の持っていたフィルタリング機能がないことによる誤解が多数生じることがあるのだ。
紙媒体に原稿を書いてきたものなら、おそらくブログの文字数等の物理的制限のなさよりも、ターゲット層が見えないことへの戸惑いの方が大きいだろう。つまり、読者への理解を促すためのメタファーをどのように使っていいかわからないからである。


以上のような相互理解が困難なインターネットの文字メディアが多くの弊害を生み出しているのは間違いない。
そのようなインターネットの文字メディアの特性を把握せずに、それを人間の性質に還元してしまうのは早急であると思われる。


また、「ひらがな」が平安時代日記文学という文学形式を生み出し、口語体が明治以降の小説という文学形式を生み出したということから考えれば、例えばブログが新しい文学形式を生み出すこともあるわけで、平野さんには是非、自覚的に新しい記述形式による文学の創出にチャレンジしてほしいところである。
おそらく、ブログは今のところ口語体と会話の合わさったものだと思われるが、トラックバックやコメント欄がより本文に影響しより内容を複雑にしているとも言える。


インターネット世代論
日本ではいわゆる1975年以降のある世代にWeb2.0の旗手とされる経営者が多いことの指摘がある。要因として大学時代にインターネットに触れることで、技術としてだけではなく、コミュニケーションの手段として扱うようになった世代であること、卒業時には不況が真っ只中であり、就職氷河期であったことにより、起業が選択肢として浮上していたこと、団塊ジュニアであったがために戦後民主主義の教育を親から受けていたことにより、リベラルなオープンソース思想に馴染みがよいことなどが環境要因としてあげられるだろう。


では、この梅田さんの言うゴールデンエイジの余波がどこまで続くかと言うと、景気が回復しはじめ雇用が増えたこととライブドア事件でウェブ起業のイメージがダウンする前の2005年度に就職したものまでだろう。2006年度に就職活動をしたものは大企業志向で保守的になっていると思われる。


就職氷河期は、戦後日本の村落コミュニティの代替であった企業コミュニティの崩壊を促し、それがために大学を卒業した後の新しいコミュニティは用意されず、それまでの学校やアルバイトで培ったコミュニティの継続を求めざるをえなくなった。それゆえに、インターネットがその補完装置として機能したということだろう。


一方で薄くなったもののリアルでのコミュニティにあまり属せないものが、インターネットの世界に新しい出会いを求めることもある。ただし、先ほどの上げたインターネットの文字メディアの特性からして、リアルでコミュニティを築けないものが、インターネットで仮想的なコミュニティを築ける可能性はかなり低いと言える。おそらく、リアルでもきずけるものなかでも、さらにスキルのあるものがインターネットでの良質なコミュニティを築けるというのが実態ではないだろうか。
もちろん稀にそういう人物もいるだろうがかなり確率は薄いし、インターネットにおいてプログラミング等の別の高度なスキルを持つなど、別の要素が働いていると予想される。


したがって、今のところ、リアルでもある程度のコミュニティに属することが可能で、さらに、もっと嗜好の近いコミュニティを求め、さらにインターネットにおけるコミュニティのスキルが高いものが、リアルとネットの両方を行き来することが可能なものになり、よりコミュニティスキルによる淘汰がされていくのではないかと思われる。


したがってそのような新しい生き方が可能な人間が、「ウェブ人間」なのかもしれない。そのようなとき、コミュニティの弱者に対する救済はいかにした可能か、それは平野さんの文学によって救いを求めればよいと言えば言いすぎだろうか。