情報誌の未来

ついにエルマガが廃刊されるそうだ。
関西発の情報誌がほとんどなくなるわけだが、東京でも雑誌自体が廃刊続きなわけで、地域的な特質というより雑誌というメディアの役割が変わってきたということに他ならないだろう。おそらく、今後はフリーペーパーが多少の代替を果たすだろうが、今後も情報誌的な地域的アイディンティティのニーズはそれほど高くなっていかないだろう。
地域情報の伝達は、携帯とSNSを通じて補完されていくのだろうが、共有のレベルは小さく断片化していくだろう。
ただ、メディアを作るという過程において、原稿を書く、写真を撮る、イラストを描く、デザインする、編集をするなどの工程を経て得られる様々な創造能力や機会が少なくなるのはやはり残念だ。
今後、道州制など、時間をかけて、地方分権化する流れにはなっていくのだろうが、そのとき、やはりメディア創造の訓練を経た人が少ないとその時点で困るのではないだろうか。
インターネットの広告市場が、最近雑誌を抜いたらしいが、その次に新聞を抜くのは間違いない。今は雑誌なのであまり目立たないが、新聞が淘汰される段階になったとき、さらに大きな変動があるのではないか。


そもそも情報誌というジャンルは、ぴあが確立したもので、ぴあはもとも映画サークルが、分散している上映会を一覧できるようにしたところから出発している。その後、様々なイベントをすべて一覧化することで、情報誌が誕生した。
その当時は、街のイベントを一覧化することは可能だったのだ。しかし、イベント数が過剰になった結果、一覧化に破綻が生じるようになる。そこから、情報誌はテーマ性を持ち、各情報誌によって取捨選択された情報を掲載するようになる。つまり、情報誌のリコメンドイベントしか掲載しないという方針に変わるのだ。
しかし、それがある一定の成功を収めたのもつかの間で、インターネットの普及により、イベント情報をウオッチすることは無料になっていく。志向性さえあれば、ネットでも携帯でもチラシでもフリーペーパーでも取得するのは無料だ。
つまり、ある種の時代の空気をかもし出していた雑誌の存在意義を読者は見出さなくなってしまったのだ。このマスメディアに参加している人々が持っている特有の優越感に急速に魅力がなくなってきたのはこの頃だろう。
エルマガもまた、かなりマニアックなテーマ性に依拠することで価値を担保していたが、それを享受する読者は基本的にマスではなく、広告価値とのバランスが計れなかったということになるのかもしれない。
今後は、オピニオンブログをネットワークして広告をつなげるような手法が主になり、あるグループの媒体というものは少なくなっていくのだろう。


メディアを作る過程で得られる創造能力の中で、特に気になるのは、伝達するための技術だ。例えば、雑誌はセグメントが明確であり、メインの読者を想定して、内容や書き方を精密にチューニングする。そのような技術を取得するためにはメディアの中で訓練を経るしかない。しかし、ブログのような、個人発信の媒体で、かつ仮想読者を想定しなくても良いメディアではそのような、相手の理解に依存した書き方や見せ方などはなかなか上達しないだろう。そのようなメソッドが雑誌の中に多く組み込まれているわけだが、雑誌がなくなるとそのメソッド自体も伝承が難しくなる。
もちろん、今後は不特定多数に書くための技法が発達していくのかもしれないが。