学校という制度

学校の問題がいわれ続けて久しい。学校裏サイトによるいじめや、学級崩壊、モンスターペアレンツ、セクハラ教師などなど枚挙に暇がない。
こういう問題を見るにつけ、学校の問題は学校をなくせば解決する、と思わざるを得ない。
そもそも、学校とは何のために行くのか?
最低限の教養を身につけるためか、良い大学に行って良い会社に入るためか。
基本的に最低限1人で稼ぎ暮らしていけるようになるのが大人の条件だとしたら、学校はプロセスでしかない。
そのプロセスは、その条件を満たした上で高めるようにするためにあると言って良いだろう。
もちろん、プロセスの中に意義がたくさんあることは認めるが、プロセスのために目標が達成できないとしたらプロセスが間違っているとしか言い様がない。

現在の学校制度は、そもそも近代の工業社会において有効なように作られている。工場労働者のように規則的に勤労することを訓練するために学校はある。つまり中身は何だっていいのだ。先生の言うことを反抗せずに、もくもくと処理することが学校で身につけることだからである。
しかし、情報社会になり、付加価値を生み出すことが求められている。付加価値は自主性なしには生まれず、現在の制度では自主性をなくすことを主眼においているのため、真逆の人材を輩出するようになっているのだ。
また、最近ではポスドク問題など、学校で勉強し続けた結果、1人で稼ぎ暮らすことすら困難になる、という大きな矛盾も抱えている。

では、最低限1人で稼ぎ暮らしていけるようになるにはどうしたら良いか。それはできるだけ子供を早く働かすことである。もちろん、働きながら、勉強し、また働くということを繰り返せばよい。そうでなければ、勉強する必要性も感じることができない。
その働くことの中に最大の教育があると言ってよい。松下幸之助が、小学校しか出でいないのは有名な話だが、船場での丁稚奉公は、その後のビジネスをする上で最大の教育になっていたのだ。

労働の中から、新しい丁稚システムが編み出される必要がある。
そろそろ、学校ありきの教育を考え直す時期にあると言える。

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