携帯電話のもたらしたもの

 最近、子供の携帯所持について、各自治体で議論されているようだ。携帯電話がいじめの温床になっていたり、授業に集中できなくなっていたりするのが問題視されているようだ。もはや携帯電話は、電話以外の機能も多く、ゲームだけではなく、テレビやネットもあり、かつての家庭にあったもののすべてがあると言ってよい。
 それが、子供の1人1人に与えられるわけだから、20年前とは隔世の感があると言ってよい。

 大人は昨今の治安事情の中で、携帯をもたせていないと不安だという声も大きい。携帯は子供を守るのか、それとも脅かすのか、それが議論の分かれ目だ。

 かつて、携帯電話が出てきたとき、バチカンでは家族を崩壊させるものとして禁止させようとしたことがあるという。たしかに、電話というのは、家に1台あるものであり、玄関の前においていた家庭が多かったことが象徴的なように、コミュニティに外部から来る訪問だったのだ。それが物理的ではなく、電信だったというだけにすぎない。
 それが個別になったときに、家族というコミュニティのフィルターがなくなってしまう。それが、出会いサイトや裏サイトへとつながっていることは間違いない。

 最近では、携帯会社も家族通話やフィルタリングのシステムなど、家族や安全を考慮したものを重視しはじめているが、電話の歴史を考えると当然のことだろう。

 しかしながら、かつては携帯電話がなく、皆過ごせていた。待ち合わせも時間に忠実だったのだ。その頃の方がよっぽど家族の信頼関係や友人関係の絆は深かったように思うのは錯覚だろうか。
 少なくとも、子供たちには、この技術革新が急速な時代を、段階的に過ごさせた方がいいだろうと思う。子供の頃から携帯画面とにらめっこというのは、あまりに感心できたものではない。そこには、喜びもあるだろうが、傷つくことも多いだろう。
 
携帯電話は僕らを安心させ不安にもさせるという不思議な道具となって、今日の社会の中心的な役割を果たしている。

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944)

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