コラムとブログ

 ブログが流行するようになって早数年経つ。当初は、IT関連に詳しいマニアックな層が参加していてが、途中からアルファブロガーなる奇妙な言葉とともに、ブログを積極的な言説活動に使う人々が現れ始め、商業化していくとともに、芸能人が多数参加するようになって今に至るといったところだろうか。

 それと平行する形で、雑誌がどんどん廃刊されはじめた。特に雑誌にはつきものだった、連載コラムでそれなりに有名になった人が昔はいて、その人々はコラムニストという名前を冠されたりしていたが、雑誌のコラムニストの枠は、今ではブロガーになってしまったような気がする。
 今、コラムニストと言われる人は、80年代から90年代にかけて雑誌でデビューした人々で、すでにほとんどが40代以上なのではないかと思う。
 
 もはや雑誌コラムからデビューする人はあまり現れないから、ブログから本になる、というスタイルに変わったといえるだろう。おりしも、出版不況の中で、唯一のびしろがあった新書は、ブログからまとめられたもの多数あるのではないか?雑誌が有望な新人発掘の場ではなくなってしまった現在、編集者が新しい書き手をブログの中から見つけるのは当然のことかもしれない。一時は、ブログ本という過渡期的なカテゴリがあったが、もはや、新書に吸収されているような気がする。

 しかしながら、最先端の言論の場の不在という印象はどうしても否めない。読者がそれを求めていない、というのはるかもしれないし、その発想自体が雑誌的なのかもしれないが、今皆がどんなことに関心や問題を持っているかがつかみにくいというのああるだろう。そして、その解決策を批評家たちが競うという構造が成り立ちにくい。
 それらも、ソーシャルブックマークのようなものが補完しているとは思うが、中心が不在という感覚がある。

 それを考えたら、日本の批評家やジャーナリスト、ジャーナリズムというのはいかに層が薄く、IT関連に弱いのだなと改めて痛感する。結局、ポストモダン的な批評も、空想の段階ではよかったのだろうけど、現実的にポストモダン的にマスメディアが機能しなくなって、補完するテクノロジーが氾濫したとき、それらの状況をうまくつかったり、正確に判断できたりする層が少ないのだろう。
 日本の人文科学者が、いわゆる文系寄りすぎて、技術的な内容についていけないというのもあるかもしれない。

 そういう、テクノロジーや新しいメディアを使いこなして、新しい言論空間を立ち上げる人が出てくるのはもう少し後なのかもしれない。