柔道の歴史
先日、歴史秘話ヒストリアで、柔道の創始者、嘉納治五郎が紹介されていた。
柔道というものが、嘉納治五郎が創立したもの、近代以前の柔術を研究して出来たもの、くらいのことは知っていたが、その創立のエピソードや、学校教育に与えた影響、夏目漱石や五島慶太などの著名人が直接的な薫陶を受け、大きな影響を与えたことなど知らないこがたくさんわかって面白かった。
夏目漱石が講道館の西郷四郎をモデルとした、「姿三四郎」をなぜ書いたかも、「坊ちゃん」のモデルとなった松山への赴任を決めたが嘉納治五郎という関係の深さを知って、改めて納得した。
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嘉納治五郎は、開成学校、東京大学時代からひ弱で、当時のバンカラ気質の学生達にいじめられていた。学問では優秀だったがゆえに、武力で負けることがくやしかったのだろう。
それで、柔術を学び、強くなることを望んだが、師匠には投げられるだけで、技については一切教えられなかった。当時の教え方は、投げること自体が伝承で、自分で会得しなければならないという類だったようだ。多くの日本の伝統技術はそういうふうに継承されていたのかもしれないがはなはだ合理的ではなかった。
それで、治五郎は得意の学問で、技の原理や体の構造について研究をし、柔術の技術を体系化していく作業を行った。そのなかでは同僚の元力士から、技を聞くこともあったという。さらに、当時の海外の資料からレスリングなども研究していたというから驚く。
そして、1年経って、ついに、当時の柔術の先生を肩車で投げることに成功する。
同時に、柔術の研究と実践をしていく過程で、体だけではなく、心が成長していることに気づいた。
それで、今まで合理的ではなかった柔術の技の伝承を、合理的に学べるようにし、また、互いが練習を通して技と心を成長できるように、柔術の中の危険な部分をそいでいった。技術を通して、心を学んでいくということで、柔術から柔道という名前にしたのだった。
柔道が極めて、近代的な合理精神によって出来たことに改めてわかった。段位については、囲碁からとって、より切磋琢磨したくなるようにしたり、学校教育に取り入れるようにしたり、オーガナイズする能力も相当高かっただろう。
剣道や合気道も同じような道を歩むことになるが、試合を設けなかった合気道は、少し古い型を残したかもしれない。
嘉納治五郎は、他の古武道も研究し、すべてを理論的にしたかったようなので、もしそれができてたら、どうなっていたか興味深いところだ。
最近は、柔道や剣道以前の古武道がブームになっているが、嘉納治五郎こそが、実は古武道研究のはしりだったと言えるだろう。