日本語という島

 以前、日本語のブログが世界一だというニュースがあったことがあるが、しかし、そのなかで何人の外国人が日本語のブログを読み、また書いていただろうか?もしかして、数%は、読める人がいるかもしれない。また、日本に興味があれば、翻訳サイトを使って読む人もいたかもしれない。
 しかし、日本語で書くとなると話は急に難しくなる。

 海外で、日本語を自由に使える人は極めて少ないだろう。先進国の多くの言語は、国境を越える。皮肉なことに、帝国主義時代の多くの旧植民地では、旧宗主国の言語を今でも公用語の一つとして使っている。
 日本は、帝国主義の時流にのったが、それらが根付く前に戦争で負けたため、韓国、台湾、旧満州の一部のしかもその時期の世代でしか日本語を話せる人は少ない。

 それと比較して、ポルトガルやスペイン、フランス、イギリスなど多くの植民地支配をした国々では、旧植民地で今でも多くの言語が使われている。

 これが、インターネット時代になり、復活した形で世界の言語地図を作ることになっているように思う。情報時代になると、言語の力は大きい。物理的距離よりも、心理的距離の方が重要だからである。

 よく日本はかつて世界を覇権した例えば、スペインやイギリスのよう国々のようになる、と言われているが、スペインが中南米を中心に多くのスペイン語が普及していたり、イギリスのように実質、英語が世界標準語となっていたりするようには日本語はいかない。
 彼らは、大西洋や太平洋、北半球や南半球をやすやすと越えて、コミュニケーションしている。

 それと比べて、日本語は、国境を越えないまるで、海に隔てられた日本列島のような言語地図を描いているのだ。このマイノリティの言語にどのような道があるのか?

 そもそも、日本語は中国の様々な時代の文字を取り入れてきた、ハイブリッド言語である。一つの言葉の中に、平仮名、カタカナ、アルファベットを同列に並べられる言語など世界にはないだろう。

 このようなハイブリッド言語としての潜在的な可能性をどれほど飛躍させることができるかが、これからの日本語の未来を占うことになるのではないか。