和田三造

 この前、テレビ東京の番組「美の巨人たち」で、和田三造が取り上げられていた。和田三造は、日本で始めて工業製品のための、標準色票などを製作し、日本唯一の色彩系の財団法人である日本色彩研究所の創立に大きな役割を果たしたことで知られているため、画家とは知りながらすっかりデザイン系の人だと思っていた。
 
 そうしたら、中学校の美術の教科書で見たであろう、有名な絵が出てきて、それが和田三造の絵だと知って非常に驚いた。本格的な西洋的な油画技法を確立した作品として、誰もが一度は見たことがあるだろう。*1
 
 実は、中学しか出ていないのに、東京美術学校の校長だった、黒田清輝の書生になり、その画力を認められ、特別に入学を認められた天才的人物だったのだ。


 しかも、その後、国費でフランスに留学して、当初は印象派風の絵を描いていたらしいが、途中で日本人である自分が、西洋の絵を書いていても意味がないことを悟り、西洋画を描くことをやめ、帰国途中に東南アジアで更紗などテキスタイルを学び、その当時の日本には、装飾デザインこそが必要だということで、帰国後は多くの装飾デザインを手がけたのだ。

 その問題意識の延長線上に、当時、工業製品の色彩の品質を決めるための、標準色票がなかったため、500色を選び、日本で始めての色票を作成した。

 また、映画美術も手がけ、日本アカデミー賞にも輝いている。

 初期の画力があまりに凄いので、そのまま絵を書き続けてたら、どれほど多くの大作を仕上げただろうか、という思いとともに、フランスに留学したことで、いち早く自身のアイディンティティや当時の日本の問題点を悟り、転身しデザイン産業界に大きな貢献を残したことは、自身の自我を第一とせず、大局を見る目のあった、聡明な人物であったことが想像される。


 マンセル色立体を作った、マンセルも画家であり、色彩教育のため色立体や色票を作ったが、画業についてはあまり知られていない。作品を見ると、センスは高く決して凡庸だとは思わないが、絵画だけで歴史に名を残すほどの作品ではなかった、ということだろう。アメリカ出身のマンセルは、やはり、芸術の後進国で、ヨーロッパの流行を真似ているような画風になっている。

 和田三造は、画力が素晴らしかっただけに、江戸時代に生まれたり、あるいは、もう少し後のヨーロッパの影響からアイディンティを確立しだした時期に活躍していたら、どれほどの作品を発表していただろう少し残念な気もするが、それほどの才能が日本のデザイン産業界に大きな貢献をしたからこそ、現在の日本デザインがあるとも言えるのかもしれない。

*1:南風