コミュニティの幸福度係数

コミュニティにおける幸福度はどのような時に上がるのか。
現在の日本というコミュニティを考えたとき、コミュニティの幸福度があまり高いように思えない。しかしながら、日本よりも経済力が弱いとところでも、幸福度が高いコミュニティはたくさんあるだろう。つまり、経済力と幸福度は比例関係にないのだ。

この辺、すべて印象による憶測で、実証的なものではないのだが、所謂昭和30年代〜40年代の高度経済成長期の方が、明らかに幸福度が高いように思える。ブームになるのはノスタルジーもあるだろうが、その高い幸福度への希求に他ならないのではないかと思う。

僕が思うには、コミュニティの幸福度は、総じてモノが少ない状態で、貧富の格差があまりなく、雇用がくまなく存在し、モノの供給と所得が増えていく過程において最大化するのではないかと思っている。
モノの供給が過剰となり、新規性やサービスでしか比較できないような社会になると、モノ=幸福度の目安にならなくなってしまう。そうすると、幸福度という尺度自体が、個々人の尺度になり、コミュニティ全体が共有できるようなものにならなくなってしまうのだ。
現在の格差社会とは、即ち、所得格差とともに、幸福度の格差に他ならない。所得が高いことはもちろん幸福度に大きく寄与するが完全に比例するわけではない。所得が低くても幸福度が高いこともあるだろう。
ただし、それはコミュニティ全体が所得が低くても、一様に幸福度が高い、というようなものとは異なる。

理想的なコミュニティとは、全体の幸福度が高いことなのだろうが、成熟した社会において全体の幸福度を上げることは、幸福度を測る尺度がバラバラになることも含め、非常に難しいことなのではないかと思う。
しかし、幸福度の高いコミュニティへの憧れは、誰しもが持っていると思う。だからこそ、どれほどモノが少ない地域でも、幸福度が高そうなコミュニティやかつての日本社会を羨ましく思うのだろう。