幸福度係数の高い国

これから、社会全体の幸福度が高くなる条件が整っていた国が、近年では中国やインド、そして東南アジア諸国だったのではないかと思う。

一様に農村からの出稼ぎで貧乏ではあったが、大規模な工場で雇用されることで、一様に所得が配られ、貧乏から抜け出し近代的なモノが手に入るようになっていた。
このプロセスにおいて、人は本当に輝いていると思う。NHKでやっていた特集でも、農村出身の少女が工場労働を経て、同じ工場で働く夫と結婚し、たくましく成長する姿が描かれていたのを記憶している。
しかしながら、この幸福度は意外に短いのではいか、と想像もしていた。なぜなら、工場労働者ですら賃金は少しずつ上がる、そうした際に、低賃金での競争力は徐々に失われ、東南アジアの工場に労働が逃げていくだろうし、そうなると特殊な技術などの付加価値を得なければならなくなる。しかし、そう簡単に技術的な付加価値を各工場や工場労働者が得られるわけではない。
また、中国の工場は、そのずさんな品質管理がいたるところで明るみになってきた。
日本は、高度経済成長期から長い時間をかけて、品質管理や技術的優位性や付加価値を蓄えてきた歴史がある。しかし、中国がそららを得るにはあまりに時間が短すぎる。
そのようにして、近い将来、大規模な淘汰が訪れ、大量の工場労働者の解雇があるのではないかと思っていたのである。
それは、世界的な金融危機により、思わぬ形で現実化したが、幸福度が最大化する過程があまりに早く過ぎすぎたことは、当人にとって当惑する出来事だっただろう。
今後、経済の回復はすぐしないだろうから、大規模な雇用機会の場も少なくなるだろう。そのとき、幸福度の最大化に向けて日々一身に働いて人はどう思うのだろうか。暴動なのも少し起こっているようだが、その動向は注目に値する。

その意味で、団塊世代の日本人の多くが幸福度が最大化した社会の中で時間をかけて人生の大半を享受できたことは、日本史においても特異な出来事だったと言えるかもしれない。