アジアの昭和30年代

 先日、地方ホールにて民族音楽のオーガナイズをしている友人と長電話をしていて、最近のアジア事情について話題になった。
 僕らが民族音楽に夢中になった90年代初期からすでに20年近くたつけれど、その当時は世界でも民族音楽は多く伝承されていたが今はどうなっているのか、というような話をしていた。


 聞くところによると、最近、アジアでも経済発展によって、都市と郊外が誕生し、その中でコミュニティが解体していく傾向にある、と。ただし、それはまだまだ日本の昭和30年代のようなもので、日本ほどは進んでいないので、それなりに民族音楽も進化をしているところがある、というような話だった。


 しかし、日本は戦後、地域共同体が解体され、次に会社コミュニティが解体され、最後のコミュニティと言われいた家族さえも、離婚率の高さなどによって揺らいでいるというのが現状ではないかと思う。


 日本人の強さは、よくも悪くも時に自己犠牲をも厭わないコミュニティの団結力やチームワークだったわけだが、その結束力が急速に失われていくと、社会全体のバランスを大きく失ってしまう。
 派遣労働の問題などはその一例に過ぎない。


 グローバルな視点と言うと、もちろん、人件費が高く、円高の日本では世界競争に勝てないといのは明白な事実だし、それを量がするだけの付加価値商品となると、専門性が高くなり、雇用する人数も圧倒的に少なくなってしまう。
 しかし、日本で暮らしている以上は、社会全体のヘッジ機構がないと、必然的にリスクが高まってしまう。


 2005年くらいからmixiなどのソーシャル・ネットワーキング・サービスが活発になったのも、長期不況により、会社コミュニティが解体されて、コミュニティのより所が学校の友人だけになってしまっていたからだと思う。
 卒業してから、分散してしまった友人たちの現在を知るために、ソーシャル・ネットワーキング・サービスは、非常に便利なツールだったのだ。そのことは、mixiの笠原さんなどもかなり自覚的に発言されていたように思う。


 僕も実は、最後のコミュニティは、学校かもしれない、と思っている。学校の問題は多すぎて、学校をなくしてしまえばいいと思うところもあるのだが、ここまでコミュニティが解体されると、学校を別な形で改変していくしか手がないのではないかと思うところもある。
 しかし、最近では学校でさえも、格差社会によって、子供達の間でヒエラルヒーができつつあるという話も聞く。


 今回の選挙で、養育手当ての話もいろいろ出ているようだけれど、単純に養育費という側面だけではなく、今後、日本各地で解体されてしまったコミュニティをどのような形で再編し、再創造していくかが、日本の大きな課題であるように思う。


 それは、これから日本と同じような歴史をたどるであるであろう、アジアの人達の大きな道標にもなるはずだ。

 民族音楽の話に戻れば、民族音楽は、コミュニティの結束の度合いを示すものであり、実は、これからコミュニティ再編の大きな役割を果たすものになるのではないかと予想している。